八分通り「喫茶店」をやってみようと決めた頃「養子に来てくれ」という話しがもちあがりました。 私の両親もその話しに大変喜び、「是非、養子にゆくべきだ」と勧めました。 誰に話しても養子を勧める人ばかりでした。 皆様からも何回となく返事を急がされました。 大いに迷いました。
ついに、箸を一本立てまして「左」へこけたら養子、 「右」にこけたら喫茶店 と決め占うことにしました。 運命の箸はものの見事に右にこけたのです。 このことがあってから、なにか迷いごとがあると箸をたてて占うことにしています。
養子の話を断って喫茶店を選んだ私に父はたいへん立腹しました。 「お前みたいな奴は勘当だ!」と… そして百円札を一枚、私に投げ、「勝手にせぇ」と怒鳴りつけました。
父が怒って投げ捨ててくれた「百円札一枚」が資本金となりました。 店舗の改装から椅子、テーブル、現金を出し入れ管理するレジスターまでの 一切がなんとか用意できました。 食器類は勤めていた「萬珠堂」が掛け売りで揃えてくれました。
とにかく恐れを知らない私でした。 昭和五年八月一日午前十一時に「リプトン・ティーショップ第一号店」を どうにかオープンすることができたのです。 場所は三条通京極を東に入った北側でわずか二十一坪の借家でした。
三条通りは京都一の繁華街でした。 京極には映画館やお笑い寄席などがズラリと並んでおりました。 今のようなテレビがなく活動写真が唯一の娯楽だったものですから 真夜中でも人通りが絶えなかったものです。 若輩で甲斐性のなかった私がこんな繁華街にどうして店を出せたのかと申しますのは、 昭和四年から六年にかけて世界は大不況期であったために借り手がなかったからでございます。
私の店は、「リプトン本社直轄喫茶部」の屋号を使っておりました。 従業員は、カフェで働いていた優秀な男子二名と女子四名の六名でスタートしました。 メニューは、コーヒー、紅茶は十銭、カレーライスは十五銭でした。
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